- マラリア30数回の鉄人!
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2007.11.02 Friday日本を出発してから287日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日は朝から農作業を手伝った。現在寺尾さんは、ある団体からジェトロファという植物の栽培をまかされているのだが、この植物からはオイルが取れ、これが石油にかわる代替燃料として現在注目されているらしい。
今日は苗のポットを作る作業を手伝わせていただいた。作業には現地人も10人ほど手伝いにきていて、ビニールに土をいれる作業を一緒にやることになった。
寺尾さんの家のすぐ前にある畑。
農作業をしたのなんて何年ぶりだろう。もともと実家が兼業農家で、米や野菜は自宅で作っていたので、幼いころ手伝いをしたことはよくあったのだけれど、東京に出てからは全くといっていいほど畑仕事をしたことがなかった。
作業は単純。ビニールに土をつめていくだけなのだけれど、その数が1万個なので、もちろん今日だけでは終わらない。終わりの見えない仕事を炎天下のなかで黙々とするのはかなりしんどい。
黙々といっても、現地人はスワヒリ語のわからない僕にしょっちゅう話しかけてくる。まったくもって黒人は気さくなやつが多い。バカにしたようなところもなく、根が明るいので本当に憎めないやつばかりなのだ。
作業は午前8時半に始まり、午後1時には終了した。途中で休憩もあったので、正味4時間の作業だったけれど、正直いうと始まって30分で疲れた。そして作業にもすぐに飽きてしまった。
炎天下の中で腰をかがめてやる作業は肉体的にもつらいし、単純作業であるだけに精神的にもつらいのだ。「農業とはなんて地道な作業なんだろう」作業初日にして痛感してしまった。
午後からは寺尾さんと一緒に現地のお葬式に参列した。プロジェクトメンバーの一人が亡くなったのだという。この村ではやたらお葬式が多いらしい。病気になっても病院にいけなかったり薬が買えなかったりして、どんどん人が死んでいくのだ。
タンザニアの平均寿命は48歳。死因で一番多いのがマラリア、次に多いのはエイズだという。
マラリアといえば、タンザニアに来て一番恐れていたことなのだが、実は昨夜、村井さんから嫌な情報を聞いてしまった。ここダカワ村はタンザニアのなかでも一番といっていいくらいマラリアの感染率が高い地域だというのだ。
マラリアはハマダラ蚊という蚊が原因なのだが、村井さんはここに来て6ヶ月で6回マラリアに感染しているという。
「ろっ、6回ですか!」
思わずでかい声をだしてしまった。生死をともなうというマラリアに半年で6回も感染しているなんて……。今まで、3回なったとかいう人がいるのは知っていた。でも、6回なったなんていう人は初めてだ。あまりの衝撃に驚いていたら、もっとすごいのがいた。
「私なんてもう、30回以上マラリアになってるよ」
寺尾さんが涼しげな顔で言う。
「さ、さ、30回ですか!!!」
――信じられん。この人よく生きてるなあ。
よくよく話を聞いてみると、マラリアは最初にかかったときは高熱が出てかなり辛いらしいが、そのあとはそこまで熱はあがらないという。
村ではマラリアで死ぬ人が多いのだが、マラリアにもレベルがあって、レベル2とか3程度であれば、薬や注射でだいたいは治るというのだ。現地の人は常時レベル2とか3の状態にあり、そのままほうっておくので、それがレベル5とかになると、それこそ生死を彷徨うほどの重病になるのだという。
貧しくて薬や注射を打てない人も多いらしい。薬は500円くらいで買えるのだけれど、それもままならない生活をしているのだ。逆にいえば、それほどマラリアが普通に蔓延しているということになる。
葬式にいくと、すでに多くの人が集まっていた。人口の少ない村で150人以上の人が集まっているのだから相当の人数だ。タンザニアでは結婚式やお葬式などの冠婚葬祭にはみなが参加して大々的に行われる風習があるらしい。
葬儀会場は屋外で(屋内に入りきれる場所などこの村にはない)、なぜだか男女が別々の場所にわかれて座っていた。これもこの国の風習なのだろう。参列者はみな普段着で(たぶんそれしか持っていない)、葬儀の前には関係者から料理がふるまわれた。
葬式でふるまわれたウガリ。
寺尾さんはこの地で7年暮らしているので、多くの現地人から「テラオサン、テラオサン」と声をかけられていた。日本人ということもあるだろうが、さすがに顔が広い。
実はこの村も僕などがおいそれと入れるような場所ではないのだ。観光客など一人もいない。滞在にあたっては村長のところに挨拶に行って認めてもらわなければならないのだが、寺尾さんの顔で僕なども普通に町を歩けるのだ。
村の民家。
村の子供。
式はいつの間にか始まっていた。棺桶に入った遺体が部屋から運ばれて会場の中央に置かれる。参列者がそのまわりに集まり、主催者が故人の経歴を話していくのだが、ここでも女性はその輪の周りで見ているだけ。男性のみしか葬儀自体に参加できないのはちょっと異様なかんじだった。
女性の数人は少し離れたところで歌を歌いながら踊っていた。これは死者を弔う踊りなのだろう。
代表者の弔辞が終わると、棺桶を担いで墓地に移動する。これも男性のみ。みなで棺桶のうしろに続き、大勢で埋葬を見守るのだ。こちらの埋葬は日本のように火葬ではなく土葬。死者はムスリムらしく(タンザニアはムスリムとキリシタンが混在している)、その儀式にしたがって棺桶から出され、体が見えないように白い布で隠されながら土葬されていった。
式自体は1時間ほどで終了した。故人のことは全く知らなかったが、ここへきて早々に貴重な体験をさせてもらった。
葬儀が終わり家に帰ると、村井さんがいない。どうしたのかと思っていると、しばらくして疲れ果てた顔で帰ってきた。
「マラリアでした」
体がだるくて熱っぽいので病院に行って検査してみたら、案の定マラリアだったという。これで半年で7回目のマラリア感染だ。しかも今回のマラリアはちょっときついらしい。しっかり治すために強力な注射を打ってもらったそうで、この注射は8時間おきに全部で6本打たないといけないという。
薬の影響で耳鳴りがし、嘔吐したという。食欲もないらしい。見ているだけでこちらも辛くなってくる。
マラリア恐るべし。マラリアには潜伏期間があるので、ひょっとしたらすでに僕も感染している可能性がある。ただ、ここでのマラリアのピークは3月から4月で今はそんなにハマダラ蚊はいないらしい。
ハマダラ蚊は普通の蚊と違って、お尻が上にあがっているらしい。時間帯としては夕方から夜にかけてよく出るそうで、夜中部屋にいても気が気ではない。あまりに神経過敏になっているので、見つけた蚊が普通の蚊だと、それだけでその蚊が愛らしくなってしまう。
絶対に間違っていると思うのだけれど、「うんうん、君ならさしてもいいよ」、思わずこんな言葉がでてしまいそうだ。
「まあ、マラリアは大丈夫でしょ」そんなふうに簡単に考えていた自分はもういない。タンザニアに来てからもう何度も蚊にさされている。それがハマダラ蚊でなければいいのだけれど……。
- タンザニア料理を食いまくる
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2007.11.03 Saturday日本を出発してから288日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
ダカワ村3日目。今日は朝から村井さんについて病院にいってきた。2度目のマラリアの注射のためだ。
家から病院のある村までは自転車で15分ほどかかる。舗装されていない道路をガタンガタン揺られながら慣れない自転車で走るのは疲れるのだけれど、そこしか病院がないので仕方ない。
病院にいくとすぐに注射をうって、診療は3分で終了した。そのあとは村井さんと村をまわりながら現地料理を食べて歩いた。マラリアでヘロヘロなのに気をつかってもらって申し訳ない。そのへんはこれまで何度もマラリアに罹っているので慣れているようだ。さすがマラリアのプロだ。
まず、たこ焼きみたいな丸いパンを食う。美味しいのだけれど、中に何か具材が入っていたらもっと美味しいはずだ。ちょっともったいない。これが1個50シリング(5円)。
たこ焼き風パン。
つぎに牛肉スープ。牛肉の固まりとスープだけのシンプルな料理だが、これは中に「ピリピリ」という唐辛子を入れると一気に美味くなった。ただ、牛肉自体は硬くて噛み切れない。これが500シリング(50円)。
それからチャパティ。これは薄くのばした小麦粉の生地をたっぷりの油に浸して焼いた料理だけれど、これだけだとちょっと味気ない。一緒に頼んだチャイとあわせて食べれば朝食としてはいいだろう。チャパティは1枚100シリング(10円)、チャイは1杯200シリング(20円)だった。
チャパティを作ってるおばさんとは仲良くなった。
さらにココナッツ。自転車のかごにココナッツを積んだ現地人が街中をよく歩いている。最初にココナッツの上の部分を切り取り、ジュースとして飲む。そのあとは実を割ってもらい、中の白い部分をかじる。そんなに甘味はないのだけれど、さっぱりしているので暑いタンザニアにはちょうどいいかもしれない。これはココナッツ1個が150シリング(15円)。
暑かったのでこのあとマジュワを飲んだ。現地の飲むヨーグルトだ。砂糖をたっぷり入れて飲むのだが、砂糖の粒が大きくて舌触りがシャリシャリしているのがいい。これは僕のお気に入りだ(200シリング、20円)。
最後にカサバ。これは芋を揚げてトマト風味のソースをつけて食べるおやつみたいなもの。ただ揚げてあるという感じで味がいまひとつ物足りない。これは一つ50シリング(50円)。
もう終わりにしようと思っていたのだけれど、暑いのでアイスを食った。アイスといっても、日本にあるチュッチュみたいなもので、ジュースを凍らしたものが小さいビニール袋に入っている。とにかく暑いのでつめたいものは何でも美味く感じる。これはたったの20シリング(2円)。
おまけ。これは出産をひかえた女性がかじるらしい。はっきり言ってただの土。
マラリアの村井さんにつきあってもらって、気がつけばいろんなものを食べていた。味付けは単純で、これらはみんなおやつみたいなものだけれど、これはこれでいい。現地の人が食ってるものを食えて満足だった。値段もこれだけ食って1720シリング(172円)だ。
村の子供たち。
帰りがけにレンガ作りの作業場によって帰った。レンガの形にかためた粘土を家のように積み上げて、下のほうにカマドのような穴を作る。レンガ全体を土で覆って、カマドのような穴から火をつけてほうっておいたら出来上がるらしい。土がいい具合にレンガに熱をとおしくれるそうだ。
もちろん、割れたり真っ黒になったりするレンガもあるのだけれど、そのなかから使えそうなものだけを使うというのがアフリカらしいなと思った。
家に帰ってからは、今日も苗のポット作りを手伝った。昼間、労働疲れでテラスで寝ていると、隣の家のガキんちょが近寄ってきたので一緒に遊んだ。
息子のキリとこの家に預けられている親戚のマリアだ。キリのほうは人懐っこくて、高い声をあげながらすぐにちょっかいをかけてくる。マリアは働き者で、洗い物や炭おこしなど、いつも家の手伝いをしている。彼女はシャイな性格で、こちらが手を振ると恥ずかしそうに笑って逃げていく。2人ともとてもいい子だ。
悪ガキのキリ。
しっかりもののマリア。
夜中には、村井さんの4本目の注射につきあって夜中の10時に村に向かった。あたりは街灯も町明かりもないので真っ暗闇だ。
空には満天の星空が広がっていた。これだけの星を毎晩見ている人は幸せだなあと思う。でも、それが当たり前だから特に何も感じてはいないだろう。僕は東京で長かったのでそれが当たり前ではなくなっている。星がないのが当たり前だ。
遠くのほうの山で赤い筋がいくつか見えた。村井さんに聞くと、山火事らしい。昨日もその山は燃えていたという。こちらは異常に乾燥しているので山火事がおこりやすい。これじゃ、アフリカの砂漠化がますます進んでしまいそうだなと思った。
- パラディソ村
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2007.11.04 Sunday日本を出発してから289日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日は午前中からパラディソ村(パラディソはスワヒリ語でパラダイス)に行ってきた。この村は寺尾さんが買い取った土地で600ヘクタールという広大な敷地面積だ。
ここで米を作り、そこに村人も滞在できるようにして、アフリカの人々にも豊かな生活ができるようになってほしい。寺尾さんの想いが詰め込まれた村だ。けれど、村作りは少しずつ進められているが、なかなか一筋縄ではいかないらしい。
まず、この土地を決めるまでには多くの年月を要したらしい。タンザニアの大統領やダカワ村の村長を何度も説得し、土地の所有をめぐってはマサイ族ともめたそうだ。
そのほかにも、寺尾さんの帰国中に火事が起こってせっかく作っていた家屋が消失してしまったり、井戸を掘ったと思ったら、そのなかに投石されて井戸を作り直すことになってしまったり……。問題は山積みだ。
なにより大変なのは、現地人の意識改革らしい。
寺尾式農法というのは、稲の種を蒔く時期を通常より早め、収穫量を増やそうというもので、土を耕すためにシロアリやミミズを使うという新しい農法を取り入れている。
シロアリというのは家屋を食い荒らすので、害虫という見方をされがちだが、実際には生きた植物を食い荒らすことはしない。ミミズは通常人間が掘り起こせる土の深さの倍の深さまで入り込み、土を勝手に耕してくれる。両方とも農業にとっては実に優秀な耕作者なのだ。
シロアリの女王アリ。子供を産むためだけに作られた体ってかんじ。これ、かなり珍しい。
シロアリの巣。
すでに寺尾さんは実験の結果その効用を確かめているのだが、それをいくら現地人に説明したところで、まったく信用しようとしないそうである。「毎年やっているのと同じようにやればいいじゃないか」「早く蒔いたら米が取れないよ」こんな感じのことをしょっちゅう言っているらしい。
パラディソ村は寺尾さんの家から9キロあって、ガタガタの道をチャリンコで40〜50分かけて移動するのはかなり疲れる。僕も最近チャリンコに乗ることはなかったので、ケツは痛いわ、足はだるいわ、日差しは強いわで
村に着いたときには「ゼエゼエ」いっていた。
一方の寺尾さんはとても60歳とは思えないほどのスピードでスイスイとペダルをこいでいる。とてもかなわないなあ。寺尾さんは鉄人だ。
村に到着すると、寺尾さんが村を案内してくれた。いまのところ、田んぼがきれいに区切られて、土手づくりをしている段階だったが、去年もここで収穫は行われたらしい。残念ながらネズミの大量発生で収穫量は思ったほど伸びなかったらしいが、寺尾さんは自分の農法にかなり自信を持っている。今年こそはという思いは強い。
村の中心部には藁葺きで作られたドーム型の研修センターが作られていた。村人は毎朝そこに集まり、集会をしているらしい。集会では寺尾さんの考えた「パラディソ村の10か条」を読み上げているという。村人たちへの意識付けはよほど大変なのだろう。
研修センター
エイズ患者用に作られた住居。火事でなかは焼けている。
広大な敷地を土手沿いに歩いてみる。360度、見える土地はすべてパラディソ村だ。まだ耕されていない田んぼに寝っころがると、すべてが空になった。
時間の流れも人の流れも何もかも忘れて何にも考えないで空とにらめっこしてみる。青草の匂いと虫の声だけが聞こえてきて、この上なく気持ちいい。
なんとはなしに島根の田舎のことが頭に浮かんできた。珍しく両親のことを思い出して、ひとりで照れくさくなる。
次にせかせか働いていた東京の雑踏を思い出してみた。渋谷の雑踏や時間に追われた徹夜続きの仕事が懐かしい。僕はそういう生活も別に嫌いではない。
どちらがいいのかということは、まだ今の僕にはわからない。でも、こういう自然に囲まれた場所でのんびりする時間は人間にとって必要なんじゃないかと思った。
最後にパラディソ村について考えてみる。寺尾さんは自分の貯金をつぎこんで、15年間かけてここまでたどり着いた。寺尾さんの挑戦はこれから先もつづいていく。
あと5年、いや10年……ゴールはないのかもしれない。それでも毎日精力的に動き回る寺尾さんを見ていると、自分もやらねばと思ってしまう。それが何なのかはよくわからないけれど……。
今日の夕食は寺尾さん手作りの魚の煮付けに菜っ葉のスープ。「KONYAGI」という現地のお酒もいただいた。食事のあとは寺尾さん、それにマラリアでヘロヘロの村井さんから現地の農業についていろいろと話を聞いた。あまりにおもしろくて話がつきることがない。
もちろん現実は厳しいのだけれど……。
これがタンザニアの「KONYAGI」。
- マサイの少年
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2007.11.05 Monday日本を出発してから290日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
農家の朝は早い。ぐずぐずしていたら日が昇って暑くて作業にならなくなってしまう。赤道近くのタンザニアともなればそれは尚更だ。
というわけで、ここに来てからは毎朝6時に起きている。日本にいるときはだいたい寝るのが3時とか4時、遅いときは7時くらいに寝て、9時半くらいに起きていたので、「朝」を経験するのは徹夜明けの疲れきった朝だった。
そのぶん、この村の朝は気持ちがいい。鶏の鳴き声で目を覚まし、心地よい空気が流れるなかで思いっきりノビをする。小学校の時のラジオ体操を思い出してしまった。
もともと旅をしていると早朝起床は多いのだけれど、毎朝6時という決まった生活リズムに慣れると、別に早起きも苦にならないから不思議だ。
話はそれるが、僕が編集者をしているときにはしょっちゅう徹夜で仕事をしていた。徹夜あけでそのまま睡眠をとらないで翌日働くこともままある。友達にその話をすると、「すごいねえ。俺にはとても無理だわ」と言われるが、実はそうでもない。
僕自体が徹夜を続けることで、徹夜のできる身体に変化してしまったのだ。マスコミ業界では徹夜を強いられることも多く、特に僕が付き合いのある芸能関係の人などは、いつ寝ているのかと思うほど睡眠を欲しない。それは50代60代になっても同じである。
そういう人は2時間とか3時間の短時間の睡眠でも身体が休まるようになる。人間の身体というのは便利なもので、生きるために都合のいいように作り変えられていくのだ。
またそういう人は、仕事でタクシー移動などがあると、その20分とか30分をまるまる睡眠時間にあてることができる。寝なくても大丈夫な身体にはなっているが、寝ようと思えばものの30秒でどこでも眠りにつけるのだ。僕が移動日を休息日に当てられるのもそのせいだろう。
「学生時代は徹夜ができたのになあ……」と言っている人は、仕事を始めて規則正しい生活が身体に沁みこんでしまったから徹夜が苦手なだけで、何度か徹夜を繰り返していけば、そんなに大変なものではなくなるはずだ。たぶん……。
というわけで、ここでの生活もリズムができていくと、身体もそっちのほうに作り変えられていくので早起きも苦にならない。日本にいるときも、旅中も不規則なリズムが自分のリズムだったので、本当にひさしぶりの規則正しい生活リズムということになる。
今日も午前中はパラディソ村に行った。本当は今日、今後の農作業について、農民を集めて説明会がある予定だったのだけれど、研修センターに行ってみると、人の数が少ない。なんでもダカワ村村長のお兄さんが亡くなったそうで、今日はその準備のために人がかりだされているのだという。
結局、説明会は延期。簡単に内容説明がされただけで解散になった。こういうことはよくあることらしい。
説明会はこんな感じ。話しているのはリーダーの「ミスターグリーン」(いつも緑の帽子と緑の服を着ている)。
せっかく50分かけてやってきたので、このまま帰るのはもったいない。研修センター横に建設中の鶏小屋の作成を手伝い、そのあとはマサイの少年と遊んでいた。
鶏小屋。
精力的に働く寺尾さん。
パラディソ村の住民。
マサイ族はタンザニアやケニアを中心に滞在している民族だが、その中でもいろいろな部族にわかれており、かなりの人数が広範囲にちらばっている。
マサイの特徴は色が黒く、顔から手から足からとにかく細長い。かといってひ弱なわけではなく、細い体はしなやかな筋肉の塊だ。さらに棍棒らしきものとナイフをいつも腰にぶら下げている。
マサイのほとんどは土地の所有権を持っていないため、いろいろな土地から追い出されて行き場を失い、このダカワという町にやってきたらしい。
「マサイ族は昔ながらの生活スタイルを守り、今でも獣と闘いながらたくましく生きている」
そんな風に思われがちだし、僕もそんな風に思っていた。でもここに来てマサイを実際に見ると、かなりイメージが違った。
彼らの中には観光客用にみやげ物を売ったり、踊りを披露したり、家に招いたりして生計をたてている連中もいる。俗にいう「観光用マサイ」だ。
ここダカワ村に滞在しているマサイ族は観光用マサイはいない(なぜなら観光客がまったくいない)。彼らの主な収入源は「牛の売買」だが、それがかなりいい金になっているらしいのだ。
ダカワ村でビリヤードをしているのはいつもマサイ。ビールを飲んでいるのもマサイ。携帯を首からぶら下げてチャリンコやバイクに乗っているのもマサイ族だ。
そう、マサイは金持ちなのだ。
牛の世話はいつも少年がやっている。大量の牛を連れて草原に連れて行き、草を食べさせる。木の棒っきれをもって、口笛を吹きながら裸足で牛をひきつれていくマサイの少年はたくましい。
研修センターで鶏小屋を作っていると、近くにマサイの少年が牛をひきつれてやってきた。
「マサイは写真をとらせない。なぜなら魂が抜かれると今でも信じているからだ」
そういう話もよく聞くが(歩き方にも載っている)、実際はそうでもないようだ。とりあえず、ここのマサイは違っていた。
少年に恐る恐る「写真をとっていい?」と聞くと、照れくさがりながらも、しっかりポーズを決めてくれる。興味深そうによってきて、デジカメのモニターを凝視すると、右手で「グッド」のサインを出して、もう一枚とってくれて言ってきた。おいおい、話がちがうじゃないか。
結論。「マサイも文明の機器には弱い」(彼ら、金持ちだしね)。
一緒に写真も撮ったりして。
今日の午後は隣の家のキリと遊んで時間をすごし、空いた時間はめずらしく「編集者」として仕事をやった。
寺尾さんが自分の考え方やこれまでの経験を手書きの文章でかなりの数まとめてらしたので、お世話になっている手前、この原稿をパソコンで打ち込んで、データを本の形式にまとめてあげることにしたのだ。(寺尾さんはパソコンを持っていないが、村井さんが持っていた)
久しぶりにの編集作業に興奮しながら、ワードで書式を設定する。目次を作り、タイトルを入れてノンブルをふり、文章のおかしなところを直しながら手入れしていく。
久しぶりということもあって、これが楽しくて仕方がなかった。
「やっぱりこの仕事、好きなんだなあ」と再確認できたのはよかったのだけれど、ページの見開き設定を忘れていたのには正直ショックを受けた。
1年近くブランクがあるとはいえ、あれだけやった作業なのに……。やっぱりたまには作業しないといけないな。そう思いつつ、結局深夜3時まで作業してしまった。
明日も早朝6時起き。最近生活リズムができているから辛いなあ……。
今日のキリ。
キリの友達も来てた。
- ダカワ村の子供たち
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2007.11.06 Tuesday日本を出発してから291日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日は一人でチャリンコに乗って、ダカワの村を探索した。
ちょっと緊張しながら村をチャリンコで走らせると、これまで知り合った何人かの村人が声をかけてくる。
「マンボ! ハバリ?」(やあ! 元気?)
「ウズリ」(元気だよ)
「チーノ?」(中国人?)
「ノー、ムジャパニ!」(日本人!)
てな感じだ。中には一緒にジェトロファの苗のポット作りをやった連中もいて、
「オー、タイガー!(仮名)」
「オー、スモーカー!」
と声をかけてくる奴もいる。スモーカーと呼ぶ奴は、いつも僕にタバコのおねだりをする奴だ。(でも、けっこういい奴)
子供たちはどうかというと、最初は珍しい東洋人にちょっと緊張しているのか、恥ずかしそうにこちらをチラチラ見ているのだが、こっちが手を振ってやると、うれしそうに手を振りかえしてくる。
野菜を売ってるおばちゃん。
井戸端会議。
子供たちに最大の効力を発揮するのが「デジカメ」だ。カメラというのはわかるみたいで、特にデジカメはモニターがついているので、それを見ようと押し合いへしあいで詰め寄ってくる。これが、まるで自分がスターになったような錯覚をおこすほどものすごい。
自分の顔がモニターに写っているのを見て、大笑いしながら仲間と盛り上がっている。
この子供たちのいいところは、カメラを見せてもそれを奪おうとする子が一人もいないことだ。中には、「アサンテ」とお礼を言ってくる子もいる。別に現像して渡すわけではないのだけれど、モニターを見れたことがうれしかったのだろう。
すっかり人気ものになってしまい(僕というよりカメラだけれど)、そのままいい気持ちで飯を食いにいった。
何かこれまで食べたことがない変わったものを食いたいなと思っていたのだけれど、牛肉のバーベキューしている店があったので入ってみた。
そこはマサイの溜まり場らしく、食べ初めてものの10分でマサイ族に囲まれてしまった。マサイに肉を勧められて食べている自分って、なんか変な感じ。すっかり仲良くなったので、彼ら大人のマサイにも写真を撮っていいか聞いてみた。
「オッケー、俺がとってやる」
なかの一人がそう言うと、僕からカメラを奪い取り、彼なりにいろいろアングルを考えて撮ってくれた(写りはイマイチ)。なんだ、マサイと写真を撮るのって、意外と簡単じゃん。
そのあとは一緒にビリヤード。ちょっとしかやらなかったけれど、マサイの奴ら、結構上手い。子供たちに牛の番をさせて、毎日ビリヤードをやっているんじゃないだろうか。
でも、肉体はすごいから不思議なんだよなあ。ひょっとして夜中は獣と闘っているのかしら……。
牛肉のバーベキュー。美味かったんだけど……。
その後は商店をまわったり、近所のおばちゃんと話をしたり、バーにビールを飲みにいったりして村を堪能した。観光客の来ない村だから、ここの現地人は僕を観光客として扱わない。「変なやつがきた」という目で見ている。
旅はお金を払ってサービスを受ける側とお金をもらって
普通に仲良くなろうとして話しかけてくる。代金をぼってくるようなこともしない。観光地をまわっているとなかなかこういう経験はできないので、ダカワ村に来れて本当によかったと思った。
夜中、なんか腹の調子がおかしい。どうやら、昼間マサイと一緒に食った肉が当たったようだ。微熱もある。
なんとかマラリアではないようだが、村井さんによると、最近この町では牛の細菌から発症した病気でけっこうな人が死んでいるという。(もっと早く教えてよ!)
やばい……。
- 腹痛もってモロゴロへ
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2007.11.07 Wednesday日本を出発してから292日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
昨日の腹痛が今日も続いている。この旅にでて、病気という病気、怪我という怪我をしていない。イースター島で風邪をひいたのと、モロッコで水にあたったの、あと高山病もあったけど、どれも1日〜2日で回復している。
――まあ薬も飲んだし、今回も大丈夫だろう。
という相変わらず楽天的な考え方で、今日は寺尾さんについてモロゴロという町に行くことにした。
モロゴロはダカワに来るときも通った町だが、今回は車を借りていくことになった。今日、日本からICBOの人が2人来るので、これからの数日はその車で色々な機関をまわらないといけないからだ。
車といっても軽トラックで、もちろん僕は荷台。風を切りながら移動する。これがとっても気持ちいい。途中で何人かの村人が飛び乗ってきた。途中まで方向が同じらしい。こういうのって、いい。
午前中はパラディソ村に必要な木材や鉄材を買いこみ、午後からはICBOの加藤さんと瀬川さんと合流して政府の機関や現地の知人を尋ねてまわった。
といっても、僕は何もできないし、話に加わるわけにもいかない。というよりも腹の調子がかなり思わしくない。
寺尾さんらが各機関で話し込んでいる間中、それぞれのトイレにこもってうなっていた。
途中、久しぶりにネット屋にいった。ダカワ村にはネット屋がなくて、メールの確認もずっとほったらかしにしてしまっていた。(誰もネットをしていないし、ネットどころか電気の通っていない家も多い)
ちょっとホットメールを覗いてみたら、メールが30件以上! その数は本当に嬉しかったのだけれど、ぜんぶ見るのも時間がかかりそうだったので、申し訳ないがそのままホットメールを閉じさせてもらった。
そのころ体調もかなり悪かったので……。
結局、フラフラしながら夕方ダカワにたどりついた。行きは気持ちよかった荷台のスペシャルシートも、帰りは夕日をもろに浴びて、ただ暑くて乗り心地が悪いだけのシートになってしまった。
一番心残りだったのは、今晩の夕食が日本から来たおふたりの歓迎会も兼ねて、豪華に鶏肉&ビールだったことだ。
ここの鶏肉はかなり美味い。それがほとんど食うことができなかった。
残念!
今日の夕食。ほとんど食べられなかったけど……。
タンザニアの鶏は自然のなかで動き回っているので美味いんだろう。
- アフリカへの救援物資は「悪」だ!
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2007.11.08 Thursday日本を出発してから293日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
腹の具合はかなり回復したものの、体力が落ちているので今日は一日家にいてのんびりすることにした。
というわけで、ひさしぶりにブログ作成。といっても、ネット屋は村にないので、村井さんのパソコンを借りて、すっかりあとまわしにしていたヨーロッパのブログを、日記を見ながら思い出して書き込んでいった。
ここの飛ばしていた1週間分のブログは疲れた。色々ゆれた時期だったので。仕事のこと、旅のこと、中国のこと……。でも今はだいぶ落ち着いてきた。いろんなことを考えながらも、今目の前にあることに全力ぶつかっていけなれれば、何をやっても駄目だと思ったので。
それから、いつもオンタイムでブログを更新できなくてごめんなさい。日本にいる人はオンタイムだと思って読んでください。旅中の人は「やれやれ」と思って読んでください。正直、パソコンないと毎日更新は辛いです。
ふと思う。作家の人はこんな感じで追われながら締め切りの過ぎた原稿を書いていたのだろうか。
いや、そんなはずはない。僕のは書く責任がない気楽な日記だ。これからもあくまで気楽に書かせてもらおう。
というわけで、今日も気楽な日記を。
1日中寝るかパソコンに向かっていて特に書くことがないので、今日はちょっとアフリカの救援物資について書かせてもらおう。
アフリカには多くの救援物資がヨーロッパをはじめ世界各国から送られてきている。
旅に出る前は、それをとても素晴らしいことだと思い、アフリカにとってなくてはならないものだと思っていた。
それがここに来て、寺尾さん、村井さんに話を聞いていると、それが必ずしも大切なものだとは思わなくなってしまった。
救援物資はアフリカの各国に定期的に送られてきている。現地人は確かにそれで生活の面では助かっているのだろうけど、それにあまりにも依存しすぎで、自分たちでなんとかしようという気が完全になくなってしまっているらしい。
「何かあれば、また救援物資が来るから」
そう思って生活しているので、本質的な部分での生活の改善、向上にはつながらないどころか、悪影響を及ぼしているという。
しかも、送られてくるものも、収穫の際にとれすぎて困った作物だったり、農薬撒布された野菜だったり……。いらなくなったものがあるからとりあえずアフリカに送っとけ、そんな感じの救援物資も多いという。
衣類や靴、その他の日用品などは政府から業者に横流しにされて、一部の人間の金儲けの手段になっていたりしている(ボリビアでもそうだった)。
寺尾さんは言う。
「物を送られても本質的な解決には何もなっていない。現地人が自分たちの力で飢饉にも旱魃にも対応できるためには、技術援助こそが本当に必要なことなんですよ。それが僕のやっている農業技術だったり、道路を作る技術だったりするんです」
村井さんは言う。
「大地震が起こったり、大津波が起こったりという本当にせっぱつまった状況では救援物資も必要だとは思うんです。けれど、ただ物資を送るというだけの援助は悪ですね」
なるほど、と思う。
たしかにそうだ。日本人は戦後、もちまえの勤勉さを生かして生活向上に努め、独自の技術開発でここまでの文明国にのしあがってきた。
独自の技術開発ではなくても、技術導入をめざして先進国への人材派遣などがもうすこし活発に行われれば、少しはアフリカの貧困も改善されると思う。それは難しいことではないと思うんだけど……。
アフリカ人にもうちょっと勤勉さがあったらなあ。
ちょっと気楽な日記ではなくなってしまったかしら……。
今日のキリ。
- いよいよ種まき開始!
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2007.11.09 Friday日本を出発してから294日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日でダカワ9日目。5日間の予定でやってきたのに、あっという間に9日目に入ってしまった。
なにせこの村は居心地がいい。そして毎日話題に事欠かない。観光客がまったくいないのもいいし、アフリカの大地で農業をやるってのもなんかかっこいい。
体調もほぼ回復したことだし、そろそろ出発するかと思っていたら、村井さんがマラリアから回復してこれから田んぼに種まきをするという。
うーん、これは参加しておかなければ!
というわけで、種まきが終わるまでダカワいることにしてしまった。
時間もなくて、最終大陸に予定しているアジアがどんどん短くなっているけれど、まあこれも何かの縁。面白いとわかっていることが目の前にあるのにそれをやらないなんてもったいない!
種まきは午前10時くらいから始まった。
日本で米を作る場合は、苗を別に育てて、それを水を張った田んぼにきれいに並べて植えていくのだが、今回は乾田に溝を掘って、そこに種籾を撒いていく作業だ。
村井さんが自分用にもっている田んぼは敷地が0.5ヘクタールくらいで、それでもかなり広い。この敷地で稲を作るのは今年がはじめてらしい。
というわけで、原野からのゼロからのスタートということになる。事前に周囲に土手を作り、敷地は一度耕してあったのだけれど、まだまだ土の塊がゴロゴロしている作業のしにくい土地だ。
こんなでっかいムカデみたいなのがいた。
最初は僕がツルハシを持ち、30センチ間隔くらいで溝を掘っていく。村井さんがその溝にそって種を撒きながら後ろから追いかけてくるという役割分担だった。
それが。。。。。腰が痛い、手のひらが痛い、日差しで肌が痛い。すでにこの田んぼにくるまでのチャリンコで体力を消耗しているので、15分くらいでバテバテになってしまった。
さらに5分もすると、早くも手のひらの豆がつぶれてしまう(はっ、早っ!)。
村井さんに作業を交代してもらい、種まき係りに。
こっちは楽だろうと高をくくっていたら、足を曲げたままの中腰で移動しつづけなければならないので、結構辛い。
種を撒いたあとはそこに土をかぶせて、上からワラをかけておく。これは「マルチ」という方法で、これによって土の水分を調整したり、ミミズの繁殖を助けたり、栄養分を与えたりできるらしい。
結局作業は12時で終了。作業を開始したのが遅かったこともあるけど、これだけ暑いと仕事にならない。というか、村井さんは慣れた感じでもくもくと作業をこなしているんだけれど、僕自体が全く使いものにならなくなってしまった。
まったくもって情けない。我ながら体力のなさを痛感してしまった。
農作業というのは大変なんだなあ。
これだけ地味で辛い作業とは。それでも、これで作物がとれたときの喜びは何ものにもかえがたいのだろう。
今日はそうそうにバテてしまったけれど、明日からはもうちょっと頑張らなくては。今日作業した面積は全体の10分の1以下。このままでは旅ができなくなる危険性が。。。
なんとか種まきは終わらせてからここを出たいからなあ。
- マサイマーケット
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2007.11.10 Saturday日本を出発してから295日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日は昨日の教訓を生かして5時半起き、6時にはチャリンコに乗って農場に向かった。やっぱり日が出てからだと作業にならない。涼しくて気持ちのいい間に終わらせなければ。
というわけで、昨日の種まきの続きをやったのだけど、要領を得たことと涼しかったことで作業ははかどり、昨日の3倍くらいの面積の種まきが終わった。これで全体の4分の1。なんとかやりとおせそうな感じだ。
お昼に作業を終わらせると、そこから村井さんに付き合ってもらい、マサイマーケットに行くことにした。
マサイマーケットというのは週に1度、村から20分くらいの場所で行われているマーケットで、マサイ族ばかりが店を出しているわけではないのだけれど、かなり多くの出店がでて日用品を売っている。
会場に行く途中、チャリンコがパンクしてしまった。ここの土地はトゲのある植物が多いので本当によくパンクする。僕がここに来てからも寺尾さんのチャリンコが2度パンクしているが、村井さんが自分でチョチョイと直していた。
パンクを自分で直すなんて日本にいるときは考えたこともなかったけれど、チューブの切れっぱしとナイフ、それに接着剤さえあれば簡単に直せる。日本は便利すぎるから麻痺してしまっているけど、日常生活のなかで自分でできることって、もっといっぱいあるんだろうなあ。
パンクしてガタガタいう自転車を無理やり漕いで、マサイマーケットに着いたときにはフラフラだった。本当に僕は体力がない。北米でのトレッキングはそんなにたいしたことなかったのになあ……。
マサイマーケットにつくと、まずサトウキビを買ってみた。皮がはいであり、一口サイズになっているものをクチャクチャすると甘い汁が出てきてうまい。疲れた身体にはなおさらうまい。これが100シリング(10円)。
次に帽子屋にいって帽子を探した。これまでの旅で帽子は2つ購入していたのだけれど、アメリカ、ハンガリーでそれぞれなくしていた。寿命はそれぞれ1ヶ月と半月。大事なもの以外は本当にいいかげんに扱っているので、すぐになくしてしまう。ほんと、僕はいい加減だ。
というわけで、ここでは1000タンザニアシリング(100円)で黒いキャップを購入。これで明日からの農作業は少しは楽になるだろう。
帽子を探しているうちに村井さんとはぐれてしまった。探しても見つからないので、とりあえずそこいらでビールを頼む。暑いときはビールにかぎる。
これは村井さんには内緒。このブログを読んでバレてしまったら、ごめんなさい(ちゃんと探していたんですよ)。ここでもビールを飲んでいるのはみんなマサイ族。やっぱこいつら金持ちだ。
マサイ族はめずらしい日本人の来客に興味津々という感じ。スワヒリ語の応酬に笑顔で返す。この旅で学んだこと。「笑顔は万国共通だ」。
ビールを飲み終わり、ほどなく村井さんを見つけると家に帰ることになったのだが、パンクしているチャリンコとほろ酔い加減、それにアフリカの猛暑がくわわってヘロヘロどころかベロベロになってしまった。
それにしてもここは暑い。暑さとハマダラ蚊さえいなければ最高の場所なのにと思う。そろそろ雨季のはずなんだけど、まだかなあ……。
- 自給自足生活
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2007.11.11 Sunday日本を出発してから296日目
ただいま30カ国目
タンザニアのダカワにいます
今日も種まき。今日はさらに30分早く5時半には家を出て農場に向かった。それにしても作業場に行くまでの道のりが辛い。9キロのガタガタ道を50分かけてチャリンコをこぐのは慣れろといわれても正直酷だ。
チャリンコ自体には慣れたものの、そのぶんケツが筋肉痛でサドルにまたがるだけで辛い。おまけに今日は行く途中に用意しておいたお茶をどこかで落としてしまった。
村井さんは水をたくさん持っていたのだけれど、あいにく僕は水が飲めない。ほんと、日の昇ってきた後半の作業は息絶え絶えだった。
今日で作業は半分終了。だんだんゴールが見えてきた。でもちょっと、身体がもつかどうか不安だ。
今日はちょっと村井さんについて書いてみよう。
村井さんは現在24歳。日本の大学に通って農業の勉強をしていたのだが、たまたま聞いていたNHKラジオで寺尾さんがインタビューされており、その話に惹かれてこの地を訪れたのだという。
ラジオでわかったことは「タンザニア」と「ダカワ」だけ。寺尾さんの連絡先を調べてみたもののその手がかりがつかめず、「現地に行けばなんとかなるだろう」というノリでこの地までやってきたという。
それが去年の夏。ダカワについてからは現地人に寺尾さんのことを聞いて家を見つけ、押しかけ弟子同然で一ヶ月ほどここに滞在したらしい。
「ここではゼロから始められる。なんでも自分の好きなようにできる。そして村もいい」
こんなかんじでこの地をいったん離れ、今年の6月からは大学を1年休学してここダカワに舞い戻ってきた。
村井さんの将来設計は「自給自足生活」だそうだ。自給自足生活というと、テレビの「ゼニキン」でたまにやっている人もいるが、村井さんの場合、自給自足をしながらも、
「お金はやっぱり欲しいですからね。今はネットもあるし、自給自足をしながらも、豊かな生活をするために何らかの収入は得ようと思っています」
そのへんはさすが現代人だなあと思う。さらに、
「農業というのはどんどん苦しい立場にたってますよ。海外から安い作物はどんどん入ってくるし、ここダカワだって、物価はちょっとずつ上がっているけれども、作物の値段が上がるのは一番最後です。日本も国がもう少し国の農業を援助してくれればいいんですけどね」
とも言っていた。夢はあれども現実は厳しいようだ。でも、自給自足生活をしながらも豊かな生活はできるはず。その勉強のために村井さんはここにきている。
村井さん。
たまにおちゃめ。
「自給自足」。資源のない日本ではこれから先、重要課題になってくるだろうなと思う。農業をやろうという若者もどんどん減ってきていると思っていたら、村井さん曰く、
「最近は豊かな生き方を求めて、農業に興味をもつ若者も少しずつ増えてきているみたいですよ」
なのだそうだ。それは嬉しい傾向だ。
「最先端ばかりに追われていて、それを満たすことで安堵している生活が本当に幸せな生活なのか?」
「便利が増えれば不便も増える。その不便ばかりの世の中に生きていることが窮屈ではないのか?」
そういう疑問詞がこれからもっともっと増えてきてもおかしくはないような気がする。
重鎮寺尾さんの言葉も付け加えておこう。
「若者はタンザニアにきて、このアフリカの空の下で農業をやればいい。そうすればみんな日本に帰って農業をやりますよ」
うーん、さすが重鎮。一理ありである。
村井さんはこのあと春先までここに滞在して収穫を終えたあと、いったん日本に帰って大学を卒業、そのあとはまたここダカワに戻ってきて、3年間くらい農業の勉強をするらしい。
たのもしいかぎりだ。村井さんには寺尾さんをなんとか手助けしてあげてほしい。そして、第二の村井さんがこの地に来てくれることを願う。人手はいくらあっても足りないのだ。
特に村人を指導できる若い日本人の人手が……。