人間は幸せになるために経済を発展させ、便利な世の中を作ろうとしている。でも、今の日本人はそれで幸せになっているのだろうか?
今の日本は経済が発展することで人々の生活が窮屈になり、生活を便利にするはずが、逆に不便を増やしている。今の日本人は自分が幸せになる術を知らないような気がする。
経済的に豊かになることこそが幸せと感じている日本人は、生活に余裕を持ちながら日常に幸せを感じて生きていく方法をもっと探してもよいのではないだろうか。
次に、今回の旅が僕にとってどのようなものであったかについて書いてみたい。
実は今回の旅を始める前、僕は今回の旅が楽しいものになるかいささか不安だった。
それは初日のブログにも書いたように、6年前の世界一周の時と比べれば、新鮮味、緊張感、発見などの面で必ず前回を下回ると思ったからだ。
これは旅をもっと楽しみたいと思っている多くの世界一周パッカーが感じているジレンマだと思う。
その中で、旅に慣れたからこそ、二度目のヨーロッパだからこそ楽しめる部分もあるのではないか。そう思って旅をスタートさせた。
実際はどうだったかというと、確かに旅慣れていたからこそ、不安なく旅を続けられたし、スムーズに観光地を回ることができた。
二度目の訪問地では観光地に時間をとられず、町を時間をかけて回ることができた。
でも、6年前と比べると、やっぱり物足りなさはいなめなかった。
結論から言うと、今回僕がヨーロッパでしてきた1ヶ月の周遊は「旅」ではなく「旅行」だった。
分かりやすく言えば、短期旅行を繋ぎ合わせたようなもので、それを節約しながら続けていた感じがある。
1ヶ月間で多くの国を回り、いろいろな名所を訪れ、楽しむところは楽しんで、宿代や移動などの費用はできるかぎり節約した。
それは何も悪いことではないと思う。一つの旅のやり方といえるかもしれない。でも、僕の中では「旅」ではなく、「旅行」だった気がする。
これから、僕が「旅」を続けていくのかは自分でも分からない。
でも、旅は好きだし、旅には僕の知らないもっと面白いことが隠れているような気もする。
そのヒントとなりそうなことが旅中にあった。
イタリアのレッチェで無銭チャリダーの圭さんと再会した時、別れ際にこんな約束をした。
「圭さん、次は中米あたりで再会しましょう。何年後になるか分からないけど、また6年後くらいかな。また圭さんを訪ねて会いに行きますよ」
圭さんは本気にしたかどうか分からないけれど、僕はけっこう本気だった。
今度は中米の現地ビールを飲みながら、また圭さんと朝まで旅の話をしたいと思った。
そこにははっきりとした「目的」と「意思」がある。
圭さんが旅に目的を持っているように、僕も6年前の世界一周の時には目的と意思があった。
「自分には世界一周ができるのか」
「自分の全く知らない世界をこの目で見てみたい」
旅のスタイルが変化してきている、自分が旅に慣れてしまった、そんなことは実は言い訳で、旅することに価値観を見出せていなかったから、不完全燃焼な旅だったのかもしれない。
今回の旅でこれまでの訪問国は49カ国になり、行きたい国もだんだん減ってきた。
次の「旅」をする時は、何ヶ月も前からドキドキし、飛びあがるくらいの喜びを感じられる旅にしたい。そんな目的と意思のある旅をいつ見つけられるかは自分でも分からないけれど、案外それは6年後の中米かもしれない。
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レッチェ最終日。
今日でこの町に別れを告げ、バルセロナに移動しなければならない。
昨日の夜はかなり熱の入った話しをしていこともあって、正午過ぎに目が覚めたものの、二日酔い気味でちょっと体が重い。
圭さんが一番得意だという朝食をご馳走になり、急いで出発の準備をした。
圭さんの一番得意な料理は目玉焼きらしい。「ん? 得意?」
14時半、僕のバックパックをママチャリの荷台に載せ、圭さんはニッチェ駅まで僕を送っていってくれた。
この6日間、圭さんには本当にお世話になった。
最初は2、3日の滞在でローマやヴェネツィアに移動するつもりだったけど、ここで6日間滞在したことは、都市観光をするよりずっと楽しく、イタリア人の生活習慣、この土地の文化なども味わえてとても有意義な滞在となった。
レッチェの町は小ぢんまりしたちょうどいい広さで、本当に雰囲気の良い町だった。
毎晩、夜中の2時まで広場は人であふれかえり、皆、時間に余裕を持ちながら生活している。
この地で40年間も陶芸をしているヒロコさんとは興味深い話ができたし、この町で偶然出会った日本人バックパッカーのYさんはイタリア初心者の僕をいろいろ助けてくれ、楽しい話がたくさんできた。
レッチェは今回の旅でもっとも思い出深い、好きな町になった。
これからも多くの困難が立ちはだかるだろうけど、圭さんの旅にご多幸あれ!
レッチェを3時16分に出発した列車はでバーリ・セントロ駅に5時10分に到着した。
1週間前にバーリからレッチェに向かった時は20ユーロした列車料金も、便によって値段が違うらしく、今回は半額以下の9.2ユーロで移動できた。
バーリ・セントロ駅からは列車を乗り換えてバーリ空港まで向かう。
本当はバスで空港まで向かうつもりだったけれど、たまたま入ったインフォメーションが空港行きの列車乗り場とつながっていた。
料金は5ユーロで、バスより1ユーロ高いけど、バスより早く着き、便もたくさんあったので、列車で行くことにした。
バーリ駅の近くのスーパーでえびせん発見。商品名は「Oishi」。
空港には6時半に到着し、チェックインをしたのだけれど、そこで一つの問題が発生した。
今回の便はスペインで有名な格安航空券を提供するヴエリング航空で、現在、ヨーロッパが一番バカンスで混み合う時期にも関わらず、スペイン行きの便は他の航空会社と比べても格段に安かった。
ネットで探したところ125ユーロ。それ以外のバルセロナ行きの便は全て200ユーロ以上で、500ユーロ以上のものも多かった。
残り枚数が少なかったから慌ててネット購入したのだけれど、安いだけあってそれなりの落とし穴があった。
まず、預け荷物が1つでもあれば追加料金が発生する。ネットには書いてあったのだけれど、ちゃんと確認していなかった。
預け荷物が10キロ以下で1つ、持ち込み荷物が1つだと思っていたら、持ち込み荷物が10キロ以下で1つだけしか許されなかった。
というわけで追加料金35ユーロを支払わされた。ネットで預け荷物があることを登録しておけば19ユーロの追加料金で済んでいたから、ちょっと痛い出費だった。
他の乗客が皆小さめのキャリーバックを持って機内に乗り込んでいたのはそういう理由だったのだ。
そして、機内に入ると、機内食はもちろん、お酒やジュースなどの飲料も全て料金がかかる。今回の移動は2時間ほどだったから何も飲み食いせずに我慢できたけど、安いには安い理由がしっかりとあった。
とはいえ、荷物代を含めて160ユーロとなってしまった航空券も他のチケットより格安だったので文句は言えない。
飛行機は定刻を少し遅れて20時40分にバーリ空港を発ち、23時にスペインのバルセロナ空港に到着した。
10カ国目となるスペインはこの旅最後の訪問国である。
今晩は時間も遅いので宿には向かわず、朝まで空港ですごすことにした。
夜中に場所のはっきりしない宿を荷物を持ちながら探すのは危ないし、宿泊予定の宿もチェックインは夜中12時までだったのでたぶん間に合わない。
1泊分の宿泊費用も浮くのでちょうどいい。
幸い、この6日間は毎日、圭さんと朝7時過ぎまで酒を飲んでいたからそんなにきつくはなかった。バルセロナ空港は広くて24時間営業だったし、2時半くらいまでは到着する便があって出迎えの人も結構いた。
カフェも24時間営業だったから、カフェのソファに座ってノートパソコンでブログを書き、2時間ほど仮眠もとれた。
明日はちょっと眠いだろうけど、久しぶりのバルセロナの町を楽しみたい。
バルセロナ空港
安いレモンのお酒を買って、空港カフェで朝まで過ごす。他にもそんな客がたくさんいた。
今日は8月8日。5年前に北京オリンピックが開幕した日だ。
「八」は末広がりで縁起がいいと考えるのは漢字を使う中国と日本だけだろう。
レッチェに来て、今日でもう5日目。
イタリアの他の都市への訪問をやめてずっとレッチェにいる。
かなり余裕があると思っていたら、驚くくらいにあっという間で、明日にはもう出発しなければならない。
お昼くらいに起きて、とりあえず荷物の整理。次の目的地であるスペインの情報を入手して、明日の空港までの行き方をいろいろ教えてもらっていたらあっという間に夕方になった。
今日が最後のレッチェの夜になる。というわけで、今日は僕も広場に行き、最後にもう一度、圭さんの手品を見ることにした。
タバコの自動販売機
ゴミ箱。
というわけで、午後7時頃、広場に着いた。
いつもより早く広場についたのは、今日から4日間、広場ではワインフェスティバルなるものが行われるという情報を聞いたからだ。
ワインの試飲、ワインに合うチーズやソーセージなど、広場内にブースがいくつも作られている。ただ、初日ということもあり、盛り上がりはイマイチだった。
子どもが店番を任されていた。
ちょっと早めに行ったので、人々の足がいくぶん早い。
大道芸をする時は、人がたくさんいればいいというものではなく、食事が終わってデザートを食べながら目的もなく散歩している少し深い時間のほうが良いらしい。なぜならそのほうが足を止めてくれやすいからだ。
早い時間だと、散歩ではなく目的をもって歩いている人が多いため、足を止めてくれる人もまばらだという。
ちょうどいいので、広場の周囲にあるオシャレな小物の露店を見ながら散歩した。何か安くていいものがあれば買ってみよう。
露店はほとんどが手作りだった。
日本にも可愛い小物は多いけど、イタリアはオシャレな感じもするのは気のせいだろうか。
通りには多くの露店が並んでいた。
ワインの栓。これも全部手作り。一つ買ってみた。
薬味を擂ってそのまま出せる容器。これも買っちゃった。
おお、町中で大胆な。さすがイタリア。
可愛いアイスクリーム売りの子を発見。
空もしだいに暗くなり、圭さんの手品にも多くの人が足を止めるようになってきた。
圭さん自身、この6年間ヨーロッパをまわりながらいろんな国で鍛えられて、大道芸への自信がついてきたらしい。
手品をしていると警察官が圭さんに話しかけてきた。
何か注意されるのかと思ったら、「俺にもコインを入れさせてくれ」と言ってきた。
警備中だろうに、こんな余裕があるのもなんかいい。
今日は長丁場になるので、11時くらいまで手品を見て、僕は先に家に帰ることにした。
手品が終わって圭さんが帰ってきたのは深夜1時半だった。
今日の圭さんは5時間も手品を披露し続け、薄利多売でなかなかの実入りを得たようだ。
で、今日も夜中の2時からは6日間連続となる晩酌を催した。
今日の話題はというと、
「全ての電子機器は人々に便利をもたらすと同時に不便をもたらしている」
「チケット買占めによる高額販売は商売としてアリかナシか」
話題がだんだん旅から離れ、小難しい領域に入ってきた。
2日前に買った18本のビールはすでに2本しか残っていなかったので、今日、追加で買ってきのに、そのビールもなくなってしまった。
今回の滞在中、2人でいったい何本のビールを飲んだんだろう。
最後にはワインも出して、今日も朝7時まで宴は続いた。
明日はレッチェからスペインに移動しなければならない。
旅は前へ前へ進んでいくものだけれど、もう少しレッチェにいたかったなと思った。
レッチェ4日目。
気がつけばレッチェに来て4日目になっていた。
当初の予定では、この町に来た目的は圭さんと再会するために来たわけで、レッチェという町を見たかったわけではない。
イタリアといえば、やっぱりローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアだろう。ナポリ、ミラノ、トリノなんて有名な町もある。
特に、今回の旅で一番行きたかった都市はヴェネツィアだった。
訪れた観光客の誰しもが良かったと絶賛する水の都・ヴェネツィアに前から一度行ってみたかった。
ところが、今日でもうレッチェ4日目。今までほとんどの都市が1泊か2泊、一番長くいた都市のブダペストで4泊だった。
「レッチェの後はローマ、ヴェネツィアと回りたいから、たぶん2泊か3泊になると思います」
圭さんにもメールでそう伝えていたのに、随分予定がくるってしまった。
実はレッチェに来た初日に居心地が良くなってしまい、その日のうちにレッチェに近いバール空港からバルセロナ行きの格安航空券をネット購入してしまったのだ。
「まあ、いいじゃないですか。ローマやヴェネツィアはまた行けますよ。せっかくだからのんびりしましょうよ」
レッチェ初日の夜に圭さんから聞いた言葉は、6年前にも聞いたような言葉だった。
6年前の世界一周中、僕は物価の高いヨーロッパで、ハンガリーに予定以上に長く滞在している。
僕の世界一周中の国別滞在日数は、毎日書いているブログの国別投稿数を見てもらえば分かるのだけれど、ヨーロッパの中でハンガリーは16日と圧倒的に長い。
それは、圭さんがスタッフとして働いていたブダペストの日本人宿・アンダンテから旅を再開するというので、見送りをするためだった。
それが、出発予定日になってもいっこうに出発せず、結局こちらが見送られることになり、無駄に長く滞在してしまったのだ。
「まあ、ゆっくりやりましょうよ」
慌しい旅程で疲れていたのか、知り合いの日本人に会えたことで安心したのか、毎日たっぷりビールが飲める喜びに負けてしまったのか、今回も6年前と同じように簡単に納得してしまった。
納得させられたというより、自ら望んでいたというほうが正確かもしれない。それだけここは居心地が良かった。
それでも、ローマだけ、ヴェネツィアだけなら全然行けたのだけれど、どうしても行っておきたい都市の片方だけ行くより、次の機会に両方の都市が残っていたほうが行きやすいと考えてしまった。
今回のイタリアで僕のこれまでの訪問国は49カ国(台湾、香港、マカオを含む)になった。行きたい国、行きたい都市もだんだん少なくなってしまった。
またいつかヨーロッパに来るために、楽しみは少し残しておこう。
自転車を直す圭さんは6年前と全く一緒。
そういうわけで、日数に余裕ができたので、バルセロナ行きの航空券は9日発を購入した。レッチェには6泊することになる。
まだ3日余裕があるけれど、3日もいながらまだ全く観光もしていないので、今日は圭さんに案内してもらってレッチェの町を観光することにした。
レッチェの町は南イタリアの町で、日本のガイドブックでもあまり取り上げられていない。しかし、欧米ではかなり人気があって「南のフィレンツェ」と呼ばれ、バロック建築が有名らしい。
この時期はサマーホリデーで観光客も多く賑わっている。
中心地は旧市街と新市街があるけれど、町の見所は旧市街に集まっているといっていいだろう。
それでは、今回も観光した場所は写真で紹介。
とりあえず観光は町の中心のサントロンツォ広場からスタートした。
広場にあるインフォメーション。残念ながら無料マップは入手できず。
まずは古代ローマ円形劇場。2世紀に作られたと言われていて、当時は2万5000人を収容したらしい。今あるのはその4分の1程度で残りは地中に埋まっているそうだが、驚いたのは今でもコンサートなどで使われていることだ。
つづいてサンタ・クローチェ聖堂。レッチェを代表するバロック建築の建物で、ここにはたくさんの観光客がいた。この土地の建築で使う石は加工がしやすいらしく、緻密な彫刻がところどころにされていた。
教会の天井には絵画が。
レッチェ大聖堂。ドゥオーモ広場にある。
大聖堂のとなりの塔
サンタ・キアラ教会。
途中でカフェに入りエスプレッソとカルツォーネを食べる。
カルツォーネもイタリア発祥。中にトマトとモッツァレラチーズが入っている。
この町にもあった凱旋門
観光が終わると、帰りにスーパーに寄ってお土産を探した。
イタリアでお土産なんて高いから無理。お土産は全部ハンガリーで買ってしまおうと思って、ブダペストでいっぱい買ったけど、ここのスーパーは安いし、他であまり見ない調味料もあったのでついつい買いたくなってしまった。
バジルとイカ墨のペースト。パスタにかけるやつ。手前はオリーブ入りの固形スープの素。
ニンニクとかバジルとか唐辛子とかの乾燥させたやつが混じっている。いろんな料理に入れると美味しくなるらしい。
圭さんが大道芸に出かえる前にバーでアペリティーボ。アペリティーボとは夕食の前に食前酒を飲むというイタリアの文化で、バーで果実酒などを出してくれる。
でもって、今日もやっぱり圭さんが大道芸から帰ってきたら晩酌。
今日のおつまみはサラダと生ハムとオリーブとほうれん草の炒め物
レッチェ3日目。
昨日も朝まで話していて、僕は昼前に目が覚めたけど、圭さんが起きてきたのは2時頃だった。
ところで、個人旅行をしない人がよく挙げる理由に「言語が話せないから」というものがある。
確かに言葉が相手に伝わらなければ不安も大きいだろう。
でも、「旅に言語は必要か?」という問いを受けると、僕はいつも「いらない」と即答する。
なぜなら、「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」「いくらですか」、この4つの挨拶さえ話せれば旅をしていく上でほとんど問題ないからだ。
宿やスーパー、切符売り場などではだいたい話す内容が決まっている。だから、相手の表情を見ていればなんとなく理解できるし、自分が相手に何かを伝える時も、紙に数字を書いたり、地図を指差したり、ジェスチャーで相手に伝えようとすれば、だいたい理解してくれる。
ただ、そのためには相手が自分の言いたいことを理解しようと努力してくれなければならない。だから、相手に気持ちを伝えようとすることは旅をしていく上で非常に大切なのだ。
もちろん、現地人とコミュニケーションをとったり、旅仲間と仲良くなるためには言語は必要不可欠なものだけれど、本当に言語が話せないと困るのは何か問題が起きた時だけだ。
ちなみに、ここレッチェではどうかというと、イタリア人は英語が話せない人が多く、僕の言葉は通じない。それでも特には困らないのだけれど、必死なジェスチャーなども必要とせず、快適に生活できているのは、圭さんのイタリア語がかなり上手で、全部助けてくれるからだ。
手品をする時もイタリア語で説明し、手品の合間や手品後に地元の人にイタリア語で話しかけられてもほとんど理解して、イタリア語で受け答えしている。
「一応、手品用語はどの国に行っても全部覚えるようにしています」
「特にイタリアは長いですからね。それに、僕は昔、スペイン語をやってましたから。イタリア語とはかなり似ているんですよ」
なるほど。金も持たずに日本を飛び出し、大西洋を手漕ぎボートで渡ろうとしている「ミスター無鉄砲」のような人だけど、だてに11年も旅を続けてこれたわけではないのだなあと思った。
というわけで、昨日予告したように、今日は地元のスーパーに行ってみた。
ここレッチェのスーパーは昼の暑い時間帯に店を閉めているところも多いらしい。だからスーパーに行ったのは夕方になってからだった。
そういえば、ハンガリーのブダペストにいたときも、スーパーは日曜日は休みだったし、他の国でも、夕方の7時くらいにスーパーが閉まる国が多かった。
日本人からすると、「どうしてやってないの!」「日本は24時間スーパーもけっこうあるし、なんて便利なんだろう」と思ってしまうけど、こちらの人から見れば、それが当たり前だから特に困らないのだろう。
便利になれば不便が増える。
そういえば昨日の夜、圭さんがこんなことを言っていた。
「こっちの人は幸せを得る方法をよく知っているんですよね」
お金を得ることのみを幸せと考えるのではなく、いかに生きている時間を充実させ、楽しく過ごせるかを考えているそうだ。
なにも休日や夜遅くまで働かなくたっていいじゃないか。そこで得る賃金よりも、その時間を自分のために使い、家族と過ごし、時間的な余裕をもって生きていったほうが幸せに生きていける。金は必要な分だけ稼げればいい。
戦後、必死に働きながら苦しい時期を乗り越え、経済発展とともに生活が豊かになっていった日本を否定するつもりはないけれど、ここの人たちは長年に亘って培われた文化の中で人生を楽しむ術が養われているような気がした。
レッチェの人たちの生活を見ていると、それが非常に分かりやすい。
ここの人たちは、夕方になると家族や仲間と一緒にまず家の近くのバーに行き果実酒などの食前酒を飲むアペリティーボという習慣がある。アペリティーボが終わったらセントラルに出て夕食を食べる。
食事が終わってもすぐには帰らない。広場を散歩しながら自分のお気に入りのアイスクリーム屋でアイスを食べ、夜中の1時2時まで広場でのんびりしてから家に帰る。
だから、大道芸をやっていても、興味をもったらすぐに足を止める。
すごい芸を見たら拍手し、面白い芸を見たら大人も老人も表情を崩してよく笑う。
良い芸だと思ったら、財布の中から小銭を出して缶に入れ、子どもが喜んでいたら、子どもに小銭を渡して缶の中にいれさせる。
きっと、小銭を渡していた親も子どもの頃には自分の両親からもらった小銭を缶の中に入れていたのだろう。
そんな文化は今の子どもが大人になったときにも子どもに引き継がれていくはずだ。
広場は毎晩こんな感じ
大人も子どもも楽しそう
大道芸に足を止められる余裕がある。
笑ったり、驚いたり、拍手をおくられる余裕がある。
自分が楽しんだことにコインを入れられる余裕がある。
時間だけでなく、心にも余裕があるんだろうなと思う。
日本はどうだろう?
圭さんに聞くと、日本は大道芸をやりにくい国らしい。
大道芸をしていても、足を止めずに横目で見たり、遠くから見て様子を伺ったりする。
芸を見ていても笑う人が少なく、芸が終わる前にその場から離れてしまう。
経済的な余裕はイタリア人よりあるはずなのに、財布の中の100円を入れようとしない。
日本人がケチだとは言わないけれど、日本人は心に余裕がないなあと思う。
日本で生活していた時、僕もそんな感じだった。
中国で生活している時、喧嘩や事故があると不思議なほど多くの野次馬が集まってくるのを見て、「なんて中国人は暇なんだ」と思ったこともあったけど、事故や喧嘩があっても何もなかったかのように横目で見て通り過ぎる日本人のほうが異常なのかもしれない。
閑話休題。
スーパーに行くと、その品数の多さと安さに驚いた。圭さんが特に安いスーパーを教えてくれたのだけれど、でっかりティラミスが3ユーロ、ビールが0.45ユーロ、生ハムやオリーブ、チーズなども日本よりずっと安くて、物価の高いイタリアをびびっていたのが嘘のようだった。
やっぱりナポリ以南のイタリアは物価が安くなるようだけれど、安いと思っていた東ヨーロッパのチェコやハンガリーと比べても同じかそれより安いくらいの値段だった。
スーパー・EURO SPIN
ティラミスがこの量で3ユーロ。
ちなみにティラミスはイタリア発祥で「私を元気づけて」という意味らしい。
今日は圭さんのところのキッチンを使わせてもらい、ちょっとした手料理を振舞うことになっていた。必要な野菜を買い、圭さんはあっという間になくなってしまったストックのビールを18本も買い足してくれた。
部屋に戻ると、圭さんは手品に出かけていき、僕はキッチンで料理にとりかかった。実は今回の旅では費用節約のために自炊しようと日本からいろいろな調味料を持ってきていた。
でも、宿にキッチンがなかったり、観光で疲れ果てて料理をする気にならなかったり、キッチンが他の旅人で埋まっていたりして、ほとんど自炊していなかった。
作ったといえば、パスタを茹でて、瓶詰めのトマトソースをかけたくらい。あとはフランスパンと生ハムとチーズを買ってすませていた。
やっぱり日本人、いくら美味しいといってもパンにはもう結構前から飽きてしまっている。
圭さんが部屋に帰ってきたのは午前2時過ぎだった。
今日のメニューは中米料理のセビッチェ、中華料理の凉拌黄瓜、辣子鶏丁、西紅柿炒鶏蛋、あとは日本の居酒屋料理のジャーマンポテト、鶏の竜田揚げ、鶏汁。
ちょっと期待されていたので、お世話になっている手前もあり頑張ってみた。
鶏の竜田揚げ
中華料理の辣子鶏丁
あまりうまくいかなかった料理もあったけれど、圭さんは全部美味いと褒めてくれた。
もちろん今日買ったビールも大量に冷やしていたので、ビール飲みながら今日も明るくなるまで話し続けた。
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レッチェ2日目。
昨夜も手品を見た後、朝までビールを飲んで、寝たのは明るくなってからだった。
夜中が蒸し暑いのと、最近の生活リズムが狂っていることもあって、今日も3時間くらいしか眠れなかった。まあ、寝ないのは得意なので大丈夫。
今日、8月5日は父の誕生日。日本にいても、世界一周をしていても、北京に滞在していても、両親と連絡をとることはほとんどない。3ヶ月に1度連絡すればいいほうで、とくに親や兄弟から連絡が入ることもない。
別に仲が悪いわけではないのだけれど、ただ単に連絡無精なのだ。
そんな僕も、1年に2回だけ日本に必ず連絡を入れている日がある。それが両親の誕生日だ。
連絡無精ではありつつも、両親にはやっぱりそれなりに感謝している。これだけは20歳になってから17年、どこにいようが一度も欠かしたことがない。
今年も父の反応はいつもどおりで、「まあ、ぼちぼち」というものだった。
誕生日電話は今年も2分で終了。電話を忘れずにしたという安堵感を胸に、こころおきなく旅を続けることができる。
今日は平日ということで、圭さんが手品をするのは夜中の10時頃からだという。
週末は人が多いので夕方からやるけれど、平日はだいたい10時くらいから3時間ちょっと。それでもこのレッチェの町は多くの人が夜中になると広場に足を運び、大道芸に足を止めてくれるから、それなりに稼げるらしい。
というわけで、今日は手品の前に一緒にピザを食べにいくことにした。
イタリアといえばピザ。と言い切れないくらいいろいろなイタリア料理があるのだけれど、せっかく南イタリアに来たのだからナポリピザを食べてみたい。
すでにこの町に来て1ヶ月になる圭さんは町のことを知り尽くしていて、日本人女性と結婚したイタリア人が経営しているという人気のピザ屋に連れて行ってくれた。
ピザ屋に行く前にカフェへ。カプチーノは1ユーロ。
ピザ屋につくと、お客さんがいっぱいで、待たなければならなかった。かなり繁盛しているらしい。
「隣に陶器の小物を売ってる店があるでしょ。ここも日本人の人がやってる店なんですよ」
圭さんに教えられて店を見ると、〈HIROKO〉という看板のかかったオシャレな陶器のお店があった。
「すみませーん」と日本語で声をかけると、店の奥の工房からヒロコさんが顔を出した。
人の良さそうな朗らかな顔のヒロコさんはレッチェに住んですでに40年。いろいろな作品を作りながら考古学の勉強もしているらしい。
この夏も1ヶ月間の日本帰国の間に、中国の成都に行きその分野について調べたいと言っていた。
この年にしてこの向学心、見習わなければいけないなあと感心した。
ピザ屋の順番が来たのでヒロコさんにお礼をいってビザを注文する。
ナポリピザとマルガリータのピザを1枚ずつ、それにビールを2本注文した。
出てきたピザは薄生地だけれど、かなりの大きさで1枚食べたらかなりお腹いっぱいになった。
それなのに、値段は1枚5ユーロ前後(650円)。イタリアのなかでも南方は物価が安いというけれど、この値段はかなりお得だと思う。
残念ながら日本人の奥さんは不在だったけれど、味は抜群。機会があれば滞在中にもう一度来たいなと思える味だった。
食事のあと、圭さんは今日もいつものように旧市街に手品をしにいった。僕は2日連続で見にいっていたので、今日は休憩。部屋で圭さんの帰りを待ち、帰ってきたらいつものようにビールで晩酌した。
今日の料理はかなり豪華。バジルのパスタ、美味かった。
こっちに来てからお世話になりっぱなし。お金も払ってないのに同じ旅人の圭さんに全部やってもらっている。
明日はスーパーに行ってみたいし、そこで食材を買って、せっかくだから僕の手料理を圭さんにふるまおうかなと思う。
日付が変わって8月4日午前0時45分、レッチェのマクドナルド前にママチャリを走らせてきたのは無銭チャリダーの圭さんだった。
2007年9月、ハンガリーのブダペストで日本人宿「アンダンテ」に宿泊している時、ちょうど旅の途中でスタッフをしていた圭さんこと岩崎圭一さんと出会った。(ケセラセラ 2007年9月22日)
圭さんが日本を発ったのは2002年。「お金を持たずに人は旅ができるのか」というテーマのもと、人間の生き方と可能性について自分なりの答えを見つけるために無銭で大陸に渡った。
僕がハンガリーで会った時、圭さんの旅はすでに5年が経過しており、日本に一度も帰ることなく旅を続けていた。
僕が世界一周中に出会った旅人のなかで一番印象に残っている人だった。
「まあ、ゆっくりやりますよ」
そんなことを言いながら、明るく旅人に接していた人当たりのいい圭さんは、あれから6年、未だに無銭チャリダーとして旅を続け、現在は南イタリアのレッチェに滞在していたのだ。
「いや、すいません。今ちょうどあっちの通りで手品をしてて、遅れちゃいました」
6年前よりちょっと痩せたような気がするものの、6年前とほとんど変わらない圭さんだった。
「疲れたでしょ。大丈夫ですか? これからもうちょっと手品をしようと思うんですけど、先に家に行きますか?」
「えっ、まだ手品するんですね。それだったらぜひ見たいですよ」
レッチェの夜は遅い。今日は土曜日の夜ということもあるけれど、夜中の1時〜2時くらいまでは広場に人が集まり、賑わっているという。
前回ハンガリーで出会った時は日本人宿のスタッフをしていて路上手品を見たことがなかったので、どんな感じで手品をするのか興味をひかれた。
手品はだいたい1回10分くらい。最初は一人もいないところから、1人が足を止め、どんどん観客が集まってくる。そして、手品を見ながら一喜一憂し、拍手が起こる。
1時間ほど手品を見た後、一緒に圭さんが泊まっている部屋に歩いていった。
現在、圭さんはレッチェの現地人の家を借りて生活している。貸している人は今別の場所にいるからその家は圭さんが自由に使わせてもらっているそうだ。
というわけで、僕もその家にお世話になることにした。
もう少し圭さんについて書いておこう。
2002年、160円を握り締めて地元の群馬県を出発した圭さんは、新宿でホームレスを体験する。お金の価値、生きる価値を見出すために、圭さんは何もないところから旅をスタートさせた。
まず、ヒッチハイクと野宿で日本の47都道府県をまわり、フェリーで韓国へ。その後、中国の青島に渡り、ママチャリを購入。一切宿泊施設には泊まらずに野宿ですごし、そこから東南アジアへ移動した。
必要最低限のお金は独学で学んだ手品を路上で披露し、そこで得たお金でまかなっていた。
そして、インドからネパールに入り、なんとエベレストに登頂する。
海抜0メートルから人力で世界最高峰のエベレストに登頂したのは、圭さんを含めこれまでに3人しかいないという。
その後も圭さんは人力にこだわり、飛行機、バス、列車、自動車などの燃料のかかるものを一切使わずにママチャリのみで移動を続け、ガンジス川を手漕ぎボートで下り、カスピ海も手漕ぎボートで横断する。
そのような過酷な旅を続けながら、ヨーロッパに着いたのが2007年。その年の9月に僕と圭さんはハンガリーのアンダンテで出会ったのだ。
あれから6年。圭さんが日本を出てからすでに11年の年月が経過していた。
ところが、この6年の間、圭さんは未だにヨーロッパを旅している。前へ前へ進み続けていた圭さんは、もう前に進むことを忘れてしまったのか。彼のブログを見ながら心配していた僕は、今回のヨーロッパ旅のルートをずらして、南イタリアのレッチェという町まで圭さんを訪ねることにしたのだ。
久しぶりに会った圭さんは、「まあ、ゆっくりやりますよ」。その言葉通りにゆっくりと旅を続けていた。
「いつまでに旅を終わらせる。そんなことを気にする必要なんてあるんですかねえ」
「次ですか? ロシアに行こうと思ってます。それはもう、2008年からずっと考えていて、毎年行こうと思ってるんですけど、毎年チャンスを逃してるんですよねえ」
相変わらずの圭さんだった。
6年前のハンガリーでの話、それから6年間の旅の話、共通の旅仲間の話……。
そんな話をしながらビールを飲み続け、気がついた時には外はもう明るかった。
1本0.45ユーロのビールを二人で9本空け、二人とも酔っ払いながらベッドに倒れこんだ。
生ハムとサラダを出してもらった
すごくいい部屋だった
この部屋を使わせてもらった
目が覚めたのはお昼前。圭さんが起きてきたのは3時過ぎだった。
レッチェも他のヨーロッパと同じく、今は一番暑い時期で、昼間は暑すぎて外に出られない。
僕もこれまでの過密日程で疲れていたからちょうどいい休養になった。
夕方からは昨日と同じように中央広場で手品をするというので、僕はちょっと遅れて広場まで行き、今日も昨日と同じように圭さんの大道芸を夜中の1時過ぎまで楽しんでいた。
子どもたちは目を輝かせていた
大人たちも真剣に見入っていた
今日は完全移動日。
朝7時前に宿を出発して、目的地に到着したのは深夜0時をまわっていた。
ただし、移動日とはいえ、今日の移動はちょっと特別。
それは、フェリーでアドリア海を渡ってイタリアに行くからである。
そして大きな不安もいろいろある。
行く先々の地図がないこと、時間的に余裕がないこと、到着時間が遅いことなどだ。
まず、モンテネグロのコトルからバスに乗って港町のバールに移動する。2時間ほどで到着する予定だ。
バールはベオグラードからコトルに移動したときに近くを通っているはずだけど、そのへんの地理はよく分からない。
ただ、コトルに向かう時と同じように海岸線がすばらしく、どの町もアドリア海に面していて、とても綺麗だった。
ただ、バールの地図もないし、フェリー乗り場がどこにあるかも全く分からない。フェリーの出発は正午12時だから、それまでになんとかフェリー乗り場にたどり着かなければならない。
朝一番の便だったからか乗客は少なく、しかも、バールに着く前に途中でどんどん降りていく。
終点はバールだから乗り過ごすことはないのだけれど、とうとう最後には僕一人になってしまった。
不安になったので運転手にフェリーチケットを見せ、「ここに行きたいんだけど」と言うと、終点に着く前のフェリー乗り場に一番近い場所で降ろしてくれ、丁寧にフェリー乗り場までの行き方を教えてくれた。
歩くこと15分。以外にもあっさりとフェリー乗り場は見つかった。
まだ10時だったから、結構早く着いてしまった。
フェリー乗り場
これが今回乗ったフェリー。けっこうでかい。
出航!
フェリーは思っていたより大型で、客室や大きなレストラン、バーなども併設されていた。
ただし、僕のチケットは一番安い甲板席なので、ずっと外にいなければならない。
まあ、せっかくのアドリア海フェリーなので、外で全然いいんだけれど。
アドリア海はとても青くて美しい。大型フェリーでアドリア海を渡り、360度水平が見られるというのはなかなか贅沢なことだ。
アドリア海
甲板はこんな感じ。
最初の1時間は嬉しくなって船内を歩き回ったり、アドリア海を見て写真を撮ったりしていた。そのあとは疲れて1時間ほど眠ってしまった。
起きてみると、まだ2時だった。到着までは7時間もある。
何もすることがないからどうしようと思ったけれど、海を見ながら音楽を聴いていたら不思議なことにあっという間に時間が過ぎていった。
みんなそうかは分からないけれど、山を見たり、遺跡を見たりしても、何時間も同じ場所で同じものを見続けていると飽きてくる。
でも、海や川のように流れる水を見ていると何時間も見ていられるから不思議だ。
ちなみに、今回海を見ながら聴いた曲は、徳永英明、スピッツ、尾崎豊。とくに徳永英明の「ヴォーカリスト」はよかった。
あっという間に7時になり、あと2時間で到着という時間になると、夕日がフェリーを赤々と照らし、水平線に沈んでいった。これは本当に美しかった。
フェリーの料金が60ユーロ(7800円)で高いと思っていたけれど、移動手段としてではなく、アドリア海をフェリー旅できるという大きなイベントだと考えれば、そんなに高くなかったかもしれない。
フェリーは定刻より少し早い8時45分にイタリアのバーリ港に到着した。
さあ、ここからが大変だ。
出国手続きを終えてフェリーターミナルから出ると、急いで中央駅へ向う。
何とか今日中に目的地のレッチェに到着したい。そのためにはバーリ駅発レッチェ行きの列車に乗らなければならない。
最終便は10時45分。フェリー乗り場から中央駅までは3〜4キロあるはずだ。
急がないと間に合わない。そして、宿をとっていないので、間に合わなかった場合、駅かマクドナルドあたりで夜明けまで待たなければならない。
港から町に続く道では多くの人たちが集まり、盛り上がっていた。
中央駅までの道はネットをデジカメで撮ったおおまかな地図しかない。
暗くて道の名前もよく分からないので、とにかくそのへんにいる人に何度も道を聞いて駅に向かった。
たぶん、10人以上に聞いたと思う。そのほとんどが英語が分からなくて驚いたけど、なんとか列車の駅ということを伝えて、少しずつ進んでいった。
そして、9時45分。無事にバーリ駅に到着した。切符の窓口が閉まりかけているところを、無理やり開けてもらってチケットを購入し、なんとか今日中にレッチェに行けることになった。
列車チケットは20ユーロ。けっこう高いけど今日中にレッチェに行かないといけないから仕方ない。でもかなり良い列車で移動は快適だった。
移動時間を使ってブログを書いていた。
レッチェ駅に到着したのは11時32分だった。
20分くらい歩いて市内中心部に行き、マクドナルドの前で一人の日本人を待った。
夜12時を過ぎているというのに広場は多くの人で賑わっていた。
これから6年ぶりにある日本人と再会する。
この町に来たのも、実はその友人と会うためだったのだ。
時間はもう夜中の1時前である。
日が変わってしまったので、この続きは明日のブログで。
今日はいろいろあって小忙しい一日になった。
モンテネグロからの夜行バスは予定の9時半より10分遅れの9時40分にモンテネグロのコトルに到着した。
12時間のバス移動ではかなり眠れた。
そして朝方はバスがアドリア海に面する海岸線を走行していたので、小さな町につくたびに赤い屋根の町並みとビーチを見ることができて得した気分だった。
コトルの町はアドリア海のリアス式海岸にある町で、内陸に一番入り込んだ湾にある。
町自体が世界遺産になっていて、町は城壁で囲まれている。クロアチアのドブロブニクを小さくしたような町だ。
コトルのバスターミナル
山に囲まれているので海というより湖みたい。
市場
コトルは城壁に囲まれた町。ゲートをくぐって町に入る。
コトルの町につくと、まずはインフォメーションに行って無料地図をもらう。
そして、一番不安だった次の目的地へのフェリーチケットについて聞いてみた。
「コトルからイタリアのバーリに行くフェリーのチケットを買いたいんですけど、どこに行けばいいですか?」
「コトルからバーリ? そんなフェリーはないよ」
「えっ、でも、インターネットで調べたらありましたよ」
「それは間違い。そんなフェリーはありません!」
思ってたんと違う! これはまずい!
それじゃ、どこからならフェリーが出てるかと聞くと、近くの旅行会社を紹介してくれた。
荷物を持ったままその旅行会社に行き、バーリ行きのフェリーについて聞くと、バスで2時間ほどいったバールという町からフェリーが出ているという。
明日のお昼の便と明後日の夜の便とあるけど、どちらにするかと聞かれ、とりあえず午後にもう一度来るといって引き上げた。
荷物が重いので、とりあえずネット予約しておいた宿に行って荷物を置くことにした。
宿はとても分かりにくい場所にあり、近くの店で聞き込み調査をしていると、やさしい店員さんが直接その宿に電話をかけて、スタッフの人を呼んでくれた。
今回泊まる宿は「ホステル・モニカ」。1泊13ユーロのドミトリーだ。
ホステルの看板も出ていない。もぐりの宿かな?
ドミトリーの部屋は充実していた。部屋の中にキッチンもある。
チェックインは12時だったので、荷物を部屋に置いて町に出て他にフェリーチケットを扱っている会社はないか聞いてまわってみた。
でも、残念ながら、何人かの人に聞いたけど、やっぱりこの町からはフェリーは出ていないようだった。
仕方なく旅行会社へ行くと、今担当スタッフがいないから午後1時にもう一度来てくれと言われてしまった。
チェックインの12時までにはまだ1時間くらい時間がある。
というわけで、海岸沿いを散歩し、ビーチに行ってみることにした。
日本とは違い、欧米人は若者から老人までとにかく体を焼くことが大好きだ。
すごく太ったおばあさんでも、ビキニにTバックみたいなのをはいて体を焼いている。日本なら絶対に見かけない光景だ。
そうこうしているあいだに12時になったのでホテルに戻りチェックイン。
シャワーを浴びて洗濯をすますと、すぐにバスターミナルに向かう。明日のバール行きのバスチケットを入手するためだ。
バスターミナルでバール行きの時間を聞くと、朝一番は7時40分発。バールまでは2時間くらいかかるそうだ。
バールの地図はなく、バスの降り場やフェリー乗り場の位置も分からないけれど、これならなんとか、明日12時発のフェリーに乗れるだろう。
7ユーロでバスチケットを購入すると、すぐに町に戻り、午前中に行った旅行会社でフェリーチケットを購入した。
フェリーは正午12時にバールの港を出港し、午後9時に南イタリアのバーリ港に到着する予定だ。料金は一番安い甲板の席で60ユーロだった。
これで、何とかフェリーチケットは確保できた。
でも、2泊で考えていたコトルを1泊にしてしまったため、今日中に観光をすべて終わらせなければならない。まあ、そんなに広くないから大丈夫だろう。
とりあえず宿に戻って事情を説明し、2泊から1泊に変更することを伝えると、キャンセル料金はとられず、1泊分の料金を返してくれた。
時刻は午後2時半。
そんなに広くはないけれど、世界遺産になっているコトルの町を急いで観光することにした。
公共の水飲み場
この町には巨人がいるようだ。
城壁に囲まれた町。城壁は山の斜面にも続いている。
思ったとおり、観光は2時間ほどで終了した。
ただ、もう一つだけやりたいことがある。それはこの町が見渡せる山の頂上へトレッキングすることだ。
コトルの町はアドリア海に面したリアス式海岸のなかで、内陸に一番入り込んだ場所にある。
町は城壁で囲まれ、町の背後には標高250メートルほどの山がある。城壁は万里の長城のように山頂まで伸びており、1時間ちょっとあれば山頂までいけるらしい。
5時半になったので山頂への登山口に行き、入場料3ユーロ払って登山道の地図をもらった。
現地人の可愛い女性が係員でいたのでいろいろ聞いて仲良くなり、写真を撮らせてもらった。
登山は想像していたより急勾配で、かなり疲れた。
ヒーヒーいいながら、なんとか1時間ほどで山頂まで到着し、コトルの町を一望する。
登山道はこんなかんじ。
赤い旗がたっているところが頂上。
頂上到着。
トレッキングは疲れるから嫌いだけど、登ってみるとやって良かったと思う。
とくに今回はアドリア海とコトルの町が一望できて眺めが最高だった。
山を降り、宿に戻ってきたのは夜8時前だった。ドミトリールームには誰もいない。
すっかり汗をかいてしまったので、この日2度目のシャワーを浴び、今日は何も食べていなかったので、急いでバスタを自炊して夕食にした。
昨日、ベオグラードのバスターミナルで買ったビール。ちゃんと冷やしておいた。
食事をしながらインターネットでメールをチェックし、明日訪れる町の情報を入手する。
結局、バールのフェリー乗り場の位置はよく分からなかった。仕方なく到着してから聞き込み調査をすることにした。
そうこうしているうちに夜中の10時になった。しかしドミトリーに他の旅行者は誰も帰ってきていない。
欧米人は夜飲みに行く旅人が多いが、この町の夜も盛り上がっているようで、宿の外からは路上演奏の音が聞こえてくる。
せっかくなので、もう一度夜の町を歩いて回ってみることにした。
中央広場はかなり盛り上がっていた。
路上演奏者
市場では朝は野菜を売っていたのに、夜は小物を売っていた。
何かのイベントがあるらしく、仮面を多く売っていた。
そんなこんなで宿に戻ってきたのは夜中の12時。他の旅行者も宿に戻ってきていた。
急いで明日のための荷造りを行い、夜中の1時半に就寝した。
明日は朝早く宿を出て、9カ国目のイタリアに向かう。
今日もかなり忙しかったけど、明日も忙しくなりそうだ。
昨日の夜中に到着したここベオグラード。
しかし、今後の旅程の関係で、今日の夜には出発しなくてはならない。
というわけで、24時間の短い滞在となる。
特に興味のある場所があるというわけではないのだけれど、なぜ訪れたかというと、初めて訪れる国であることと、方向的に通らなければならない国だったからだ。
実は、2007年の世界一周の時も、ブルガリアからボスニア・ヘルツェゴヴィナに移動する際にセルビアは通っている。
でも、特別興味がなかったので、そのまま通り過ぎてしまった。
だから今回はせっかくなので、1日だけれど立ち寄ることにしたのだ。
ベオグラードの中心部はそんなに広くない。
今日は朝6時には目が覚めたので、それから準備をして9時にチェックアウト。
ホテルに荷物を預けて(有料・3ユーロ)、市内観光に出発した。
アンダンテで見た「地球の歩き方」の観光地を見ても、特に行きたいと思う場所はない。
興味のない場所を回るために暑い中を歩き回るのは面倒くさいので、市内の中心地をぐるっと1周してみることにした。
宿の近く
まずは中央市場に行ってみた
ここでは朝食のバナナを購入(7本で40ディナール、45円)
次にサヴァ川の船着場へ
サヴァ川が見える丘公園にいってみた
全裸の男の像が町を見下ろしていた
戦争博物館
公園で遊ぶ子供たち
物売りの人も若くて美人
町を歩いていると、以外にも色んなことが分かって面白かった。
これまで回ってきたヨーロッパの国とはちょっと違うなと思うこともいろいろあった。
箇条書きにしてみよう。
まず、この国の言語はセルビア語で英語があまり通じない。昨日のインフォメーションのおっさんもそうだった。
町中にタクシーが多くいる。これまで通った国は基本的に流しのタクシーはいなかった。トラムは走っているけれど、地下鉄はなく、市内交通が充実していないことが原因かもしれない。
通りの名前を書いてないことが多く、目的地を見つけることが難しい。看板や道の名前が書いてあっても、セルビア語だけで英語表示がないので分かりにくい。
道路の舗装状態がよくない。また、町中の壁に落書きがとても多い。首都のベオグラードといっても、まだそこまで整備されていないようだ。
アジア人観光客がほとんどいない。日本人は滞在中、一度も見なかったし、中国人を中心地で1組見ただけで、あとはいなかった。
道路の舗装はこんなかんじ。
これはきれいなイラストだけど、落書きはとても多い。
中国人旅行者はいなくても中国人移住者はいる。「北京飯店」
町の中心地
お昼になったので、ちょっとレストランに入ってみた。
ここでは室内で喫煙できたので、ハンガリーとは違うようだ。
セルビア料理らしき料理を注文し、安かったのでビールも頼んだ。
これで600ディナール(680円くらい)
食事を終えて、中心地をぶらぶらし、いつの間にか宿の近くまで戻ってきていた。
9時に出発して2時に戻ってきたから、5時間くらい観光していたことになる。
バスの出発まで時間があるので、それまでは宿のリビングでネットをしていた。
宿を出たのは8時。歩いて昨日バスチケットを買ったターミナルに向かった。
空はまだ明るい。明るくて道を知っていると、案外あっさりと駅に着いた。びくびくしながら歩いていた昨夜が嘘のようだった。
バスターミナルに到着してから、財布にまだ600ディナール(660円)残っていることに気がついた。
もうスーパーにも行けないし、お土産物もたいしたものがない。
仕方ないので、夜食用のパンを2つ、ビールを3本、ジュースを1本買ってディナールを消費した。
重いので1本飲んじゃいました。
ベオグラードを出発したのは9時20分。
夜行バスは明日の朝9時半に8カ国目・モンテネグロのコトルに到着する予定だ。
今日はブダペストを出発し、新しい国に移動する。
DJのKくんとは偶然同じ宿に宿泊し、2日間だけだったけれど、今まで知らなかった音楽の世界やDJ業界についていろいろ教えてもらって勉強になった。
宿のチェックアウトは11時。Kくんに見送ってもらい、少し早いけれどそのまま荷物を持って東駅まで歩くことにした。
疲れている旅人もいれば、
かっこいい旅人もいる
これが今回の旅で初めての列車移動だ。
西ヨーロッパでは列車は高くて手が出なかったけれど、ハンガリー以南はバスも列車もそんなに値段が変わらず、なかには列車のほうが安い場合もあるらしい。でも、列車は時間がいい加減で、遅れることもよくあると地球の歩き方に書いてあった。
列車に乗ると、30分くらいして切符の検査があった。
そして、旅の初日以来となる出国・入国チェックが列車内で行われ、パスポートにもちゃんとハンコを押してもらった。
セルビアはユーロに加盟していないからだろう。
ちなみに、ベオグラードに行くことは、ブダペストに着いてから決めた。
本当はブダペストのあとはスロヴェニアに行こうかと思っていたのだけれど、前にも一度行ったことがあるし、ちょっと様子の違う国にも足を運びたくなったのだ。
というわけで、セルビアのことは何も調べていないし、ガイドブックも地図もない。
必要になりそうな箇所はアンダンテにあった地球の歩き方「中欧編」をデジカメで撮っておいたけど、到着するのが夜だし、ホステルの場所がすぐに分かるか結構不安だ。
こんなファームが広がっていた。
移動中はほとんど寝ていた。
昨晩も普通に寝て、夜中は寝なくても平気なのに、なぜか乗り物移動になるとすぐに寝ることができる。
これは旅人にとっては結構重要。
もちろん荷物はしっかり管理しておかなければいけないけれど、夜行バスや夜行列車で移動しても、目的地についてすぐに1日中観光できるから無駄がない。
ただ、地球の歩き方の指摘どおり列車は遅れ、ベオグラードについたのは定刻より1時間遅れの9時半だった。
もう日が落ちて真っ暗である。
両替屋を探して現地通貨を作り(ディナール)、次の移動のことを考えて駅の近くにあるバスターミナルで次の移動のチケットを買った。
そうこうしているうちに、時間はもう10時半になっていた。
町にはスロットやルーレットのカジノバーがたくさんあった。
しかも、ホテルの場所は「Booking.com」の宿情報で出ていた簡単なものをデジカメで撮っただけだ。
地図を見ると歩いていけなくはないけど、まあまあ距離がある。
町の雰囲気も何だか怪しいし、駅の周りの見せはだいたい閉まっていて道も暗い。人通りもほとんどなかった。
これって結構ヤバイんじゃない……。
と思いながら開いている店の店員の人に道を尋ねながら、なんとか30分ほどで予約しておいた宿を見つけた。宿に着いたのは11時をまわっていた。
フー。良かった良かった。
今回の宿「GO2ホステル」。1泊7.2ユーロ(930円)。
今回のドミトリーは珍しく3段ベッドだった。
宿のある場所はベオグラードの中心地で、外は人通りもあったので、とりあえず喉の渇きを癒そうと近くの売店にビールを買いにいった。
ところが、残念ながら22時から6時まではビールの販売が禁止らしく、仕方なくコーラを買って宿に戻った。
明日は一日、ベオグラードの町を散策する。この国はいったいどんな国なのだろう。