日本を出発してから270日目
ただいま27カ国目
ポーランドのクラクフにいます
朝8時半のバスに乗ってやってきたアウシュビッツ。アウシュビッツとはドイツ名で、本来の呼び名はオシフィエンチムというらしい。
この地は第二次世界大戦中にナチスドイツが、占領下の土地からユダヤ人、ポーランド人、共産主義者、反ナチス活動家、同性愛者などを送り込んだ強制収容所だ。
あるものは即座に殺され、あるものは過酷な労働を課された後に殺されたまさに殺人工場である。
殺された人々は約150万人。それがただ殺されたのではなく、むごい仕打ちを受け、むごい殺され方をしたというのがここにくればすぐに分かる。現在、収容所の28ある囚人棟がそのまま博物館となっており、多くの観光客がこの地に足を運んでいた。
入場料は無料、写真撮影も自由である。少しでも多くの人にこの惨劇を覚えておいてほしいと願ったポーランド人の叫びのような気がしてズシンとくる。
収容所のゲート。「B」の文字が上下逆なのはこの門を作らされた囚人のせめてもの抵抗か。
収容所博物内を歩く。館内には当時の現場を撮した写真や囚人から没収した衣類、所持品などが並べられていた。囚人棟も当時とほぼ同じ状態で残っているものが多数ある。
集団絞首刑
集団銃殺
ここに運ばれた囚人は男女問わず坊主にされ、まず身分写真を撮られる。
囚人から没収した靴の山。この他にも眼鏡、カバン、衣類などありとあらゆるものが没収され並べられていた。
52頭用の馬小屋を改造して作られた棟に1000人もの囚人が押し込まれる。飢餓室、毒ガス室、鞭打ち台、絞首台、立ち牢などといった残酷な刑罰室も当時の臭いを残している。10棟と11棟の間の壁は「死の壁」といわれ銃殺に使われたらしい。
男も女もない。大人も子供もない。これほどまでにひどい殺人現場があったとは。。。
「死の壁」
囚人が押込められた囚人棟
絞首台
たしかに一人で見るのはきついかもしれない。でもこれは、一人で見るものだとも思う。目をそらしてはいけない。
また、これと似たようなことが同時期のアジアでも行われていたという事実を忘れてはならない。日本も植民地下においたアジア諸国にひどいことをしてきたのだ。
同時に、その戦争が原爆投下という形で終結を迎えたことも忘れてはならない。唯一の被爆国として世界中の多くの人々に核兵器のおそろしさを伝えていくことは日本人の使命だと、ここに来て強く思った。
オシフィエンチムからバスで10分ほどのところには、さらにでかいビルケナウという強制収容所があった。ここは第二アウシュビッツと言われている(ちなみに収容所間の移動バスはやはり無料だった)。
入り口から中に入ると、まっすぐな線路が敷地内を縦にのびている。この入り口のゲートは「死の門」と呼ばれていたらしい。ゲートをくぐった囚人は囚人棟に運び込むために作られたトロッコにのって囚人棟に運び込まれる。したがってこの線路は、いわば「デッドロード」、当時は300棟以上のバラックが建ち並び、ここで多くの命が失われたのだそうだ。
この線路で運ばれてきた多くの人が虐殺された。
広大な敷地
アウシュビッツとアザミ、なんとなく似つかわしい気がした。
僕がこの地に足を運んだ最大の理由、映画「シンドラーのリスト」のオスカーシンドラーはこの地に運び込まれた囚人を多く助けたことで知られている。日本に帰ったらもう一度この映画を見てみよう。また違った印象を受けるかもしれない。