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平和の祭典から7年後の悲劇
日本を出発してから234日目
ただいま20カ国目
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォにいます


 1984年、この地では冬季オリンピックが開催された。オリンピックは世界平和を願って行われるスポーツの祭典だが、そのわずか7年後、紛争により、この町は多くの犠牲者をだした。

 バスがサラエヴォに着いたのは午前7時半。トラム(路面電車)に乗って市街地まで移動し、バスターミナルへ。今日の夜行バスに乗ろうとチケット売り場に向かうが、次の目的地クロアチアのドブロブニクまでは一日一便、早朝しかないという。
 仕方なく、友達に紹介されていた「ミキ&ブリジッタプライベートルーム」を探す。プライベートルームとは要するに普通の民家を間借りするわけで、ホテルなどと比べると安い。
 多少迷ったものの、なんとか宿にたどり着く、料金は1泊5ユーロ(800円)、これは確かに安い。荷物を置いて少し休むと、さっそく市内観光をすることにした。

 まずはスナイパー通りへ。スナイパー通りというのは、紛争中にセルビア人狙撃兵が両サイドの高層ビルに潜み、住民を狙撃した場所で、今でも至る所に銃痕が残っている。当時セルビア人狙撃兵は子供や老人、女性をも狙撃したのだという。紛争から15年、生々しい戦争の傷跡はまだ完全には癒えていない。






広場には銃痕を埋めたあとが。
 
 次に旧市街の方へ向かう。青空市場や第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件現場をまわったあと、パシチャルシアという場所に出た。
 ここは旧市街の中心地で、平日だというのに活気があった。おしゃれなカフェが立ち並び、金銀細工を扱う店を中心に土産物屋が多く並立している。広場にはたくさんのハトが集まり、まるで戦争などなかったかのような雰囲気を漂わせていた。


サラエヴォ事件現場。


金銀細工のお店











 このあと、町の北部にあるオリンピック跡地に向かう。坂を上っていくと、途中からオリンピックの聖火台が五輪のマークとともに顔を出した。84年に行われた冬季五輪ではここがメインスタジアムになったようだ。
 そのすぐわきのグラウンドには、白い墓標の立った墓が敷地内いっぱいに広がっている。中に入ってみると、その墓のほとんどが92年没と刻印してあった。
 そう、このあたり一帯の墓地は、ほとんどが先の紛争で命を失った人たちの墓なのだ。紛争中、死者を墓場に運ぶこともできず、埋める場所すらなかったため、仕方なくこのオリンピックサブグラウンドに死者を運び、埋葬したらしい。
 現在では平和を意味するオリンピックの聖火台が墓地を見守るという皮肉な形になっている。だが、サラエヴォに平和というものの大切さを刻み付けるためにも、この地はそのまま残してほしい。あの惨劇をもう二度と繰り返さないためにも……。







 午後3時までで観光はほぼ終了。とりあえず明日早朝のバスチケットを入手すると、バスターミナルで一人の女性に声をかけられた。
 彼女は大の親日家らしく、日本人旅行者をプライベートルームとして家に招き入れることもあるそうだ。その写真などを見せられ、もしよかったら家にこないかと言う。時間もあるし、安全そうなのでちょっとおじゃましてみることにした。

 家に行くと、彼女は日本のこと、僕のことをやたらめったら聞いてきた。そして、お菓子や旅に必要なものをいろいろくれ、最高のもてなしをしてくれた。帰り間際、今晩うちに泊まらないかと誘ってくれたけれど、それは宿が決まっているので遠慮しておいた。
 でも、まさかサラエヴォの地でこんな歓迎をうけるとは思ってもみなかった。宿に帰ると、宿の女将ブリジッタが夕飯をごちそうしてくれた。初めてあった異国の旅人にここまで親切にしてくれるなんて。
 少し前に紛争で多くの犠牲者が出た町とは思えない。どうしようか迷っていたけど、サラエヴォに来てよかったと思った。
 
 
 
author:tiger, category:Bosnia Herzegovina, 14:14
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